Himi Wrapping Project
『シュメールと日ユ同祖論と氷見』
富山県氷見市は、かつて阿努庄と呼ばれる地域だった。
最終的に阿努庄は春日大社の荘園となり、氷見市「中村」は、春日神を祭神としている。
氷見といえば、石動山のイスルギヒコは、猿田彦とも比定される神だが、阿努といえばアヌ、古代シュメールが連想され、春日大社が日ユ同祖論の中でどの様な関係が考えられるだろうか。
『行基と高志氏出自の伝承』
行基の出自が高志氏であるという伝承、および彼の能登・高志国での活動伝承は、ヤマト王権が仏教を通じて地方支配を文化的に補強し、既存の信仰や歴史の上に新たな国家的権威を築く過程に関与していたと解釈できる。
行基自身の意思は不明だが、結果的に彼の事績と仏教信仰は、歴史の層を重ねる手段として大きな役割を果たした可能性がある。
行基の出自
『大僧上舎利瓶記』によれば、行基は高志氏の出身で、父は才智、百済王子・王仁の子孫とされる。
『日本現報善悪霊異記』では、俗姓を越史とし、本貫は越後国頸城郡、母は和泉国の出と記されている。
いずれにせよ、行基が北陸地方(古代の高志国)にルーツを持つ人物である可能性がしめされており、高志史(高志氏)は医術などの専門知識を有する氏族だったという推測もあり、行基の社会事業や仏教的活動との親和性がうかがえる。
行基と能登・高志国の関係性
古代の高志国(越前・越中・越後を含む)は、仏教以前に独自の信仰体系や文化を持ち、翡翠などの宝石文化、出雲系神話との関連など、豊かな歴史的背景を有していた。
行基がこの地域で多くの活動伝承を残していることは、彼自身のルーツと照らし合わせて自然な流れと考えられる。
しかもその活動は、単なる宗教的布教ではなく、池や橋などの公共インフラ整備を通じて民衆の信頼を集めた社会事業としての側面が強く、律令国家の意向と一致している。
仏教による「歴史の上塗り」の可能性
高志国がかつて倭国中枢の一角だった可能性(氷見=邪馬台国説、武内宿禰伝承、大伴家持派遣の意図など)を踏まえると、行基の活動は単なる僧侶の布教ではなく、ヤマト王権の権威を宗教的に浸透させる文化的プロジェクトの一環と見ることができる。
行基の活動伝承が多く残る北陸は、ヤマト王権が歴史的に介入した重要な地域と考えられる。
行基が開いたとされる寺社の分布や活動内容は、仏教によって地域の信仰と歴史を再編し、ヤマト王権の支配正当性を補強するものとして機能していた可能性がある。
伝承と歴史再構築
行基の活動に関する史料の多くは後世の伝承に基づいており、彼自身が政治的意図を持っていたとは限らない。しかし、その影響力の大きさと、特定地域における伝承の集中は、仏教を通じた歴史の再構築=「上塗り」というプロセスの中で、行基自身というより、その存在が利用・象徴化された可能性を示唆している。
『能登を邪馬台国の中心地と見る』
魏志倭人伝の方角、距離に関する記述は、果たしてどの程度鵜呑みにできるのかを考えた場合、当時の交通の状況、資源などの状況から、邪馬台国の中心地を能登周辺だと考えることは可能ではないだろうか。
氷見は、まさしく「ヒミ」であり、日本の歴史において、縄文時代と弥生時代の前後関係を確定させるに至った遺跡、大境洞窟の裏手にある九殿浜(くでんはま)の「九殿」とは、元々宮殿が当てられていたとも言われている。
我々が現在考えている日本の歴史的な「中央」の変遷について、改めて様々な角度で考えていきたい。
『カレー味の魚粉ふりかけ「ハチムラ」』
日清食品がバスケットボール選手の八村塁選手の要望を受けて、「カップヌードル 氷見カレー ビッグ」を商品化した背景には、富山県氷見市で家庭に普及しているふりかけ「ハチムラ」の存在がありました。
日清食品は、八村選手からの「僕の商品つくって欲しいな」という一言をきっかけに開発をスタートさせ、彼の地元である富山県のB級グルメ「氷見カレー」に注目しました。そして、商品化にあたって富山県をリサーチする中で、氷見の「ハチムラ」を発見したことが、「カップヌードル 氷見カレー ビッグ」の商品化に繋がったとされています。
「ハチムラ」は、魚粉とカレー粉を混ぜ合わせたふりかけです。その起源は、明治中期に小久目の豪農である八村家に遡ります。当時、まだカレーライスが一般的ではなかった頃、八村家が偶然入手したカレー粉の使い道に困り、試行錯誤の末に魚粉と混ぜ合わせて作られたものが始まりとされています。これが氷見市内で広まり、各家庭で使われる魚やスパイスの種類が異なる多様な味の「ハチムラ」が存在するようになりました。ただし、近年はカワハギが獲れにくくなるなどの影響で、作るのをやめてしまった家庭も多いとのことです。
日清がこの「カップヌードル 氷見カレー ビッグ」を発売したことは、氷見市内で数十年ぶりに「ハチムラ」を作ったという声が多く聞かれるきっかけにもなったようです。
なお、氷見市出身の歴史家で小説家の能坂利雄氏については、「ぶりぬぐい」という氷見の郷土料理とロシア料理の「ブリヌイ」の関係について、富山新聞に連載していたエッセイで考察を書いた人物として紹介されています。能坂氏は氷見の失われた習俗や奇祭に関する調査も行っていた人物です。
「カップヌードル 氷見カレー ビッグ」は、甘味のあるオニオンベースのカレーに、煮干しなどの和風だしと唐辛子でアクセントを加え、別添の「特製氷見産煮干しパウダー」で仕上げるという、「氷見カレー」の特徴である煮干しの風味を活かした商品となっています。この商品は「氷見カレー学会」の公認も得ています。
『失われる氷見の習俗について』
氷見市出身の歴史研究家、小説家の能坂利雄先生が残した草稿やメモの類が、氷見市教育文化センターの倉庫に眠っているという話を聞いたのは、平成の終わり頃だったと記憶している。
先生が亡くなったのが平成の初頭の頃から四半世紀、手付かずのまま保管されており、内容についても本格的な調査はおろか、開封されたことのない箱もあるとのこと。
「氷見春秋」周辺には先生と関係の深い人々も居るだろうし、とうの昔に洗いざらい確認しているものと考えていたが、いかなる事情か、そうはなっていなかった様だ。
一時期の紙の質の関係か、一部に劣化が確認されるため放置しておくこともできず、かといって保全やデジタル化の予算も立たないという話しを聞き、なにはともあれ、スキャナーにかける作業を安請け合いした。氷見高校歴史部はとうに消滅していたが、有志の生徒たちを募り、スキャン作業をしながら整理を進めることになった。
草稿に満たないメモの類には、奔放な想像力を働かせた様子の窺い知れるものもあり、竹内文書と氷見の関係、喚起泉達録についての覚書なども断片的ながら歴史研究を超えて、フィクションの準備ととれるものもあった。
その中でも目を引いたのは「ブリスマス」についてのおびただしい量のメモだった。
ブリスマスは昭和40年代には廃れてしまった氷見の奇祭で、私も、実際に目にしたことは無いが、中学生の頃、青年団の集まりなどにいくと、稀に話題になることもあり、過酷な通過儀礼ということは承知していた。
ただ、驚いたことに、手伝いを買って出てくれた生徒ですら、誰一人「ブリスマス」について知らず、聞いたこともないと口を揃えて言うのだ。
世代が変わって習俗が失われていく現場を目にしながら、能坂先生が遺した大量の断片の整理と、消えていく氷見の歴史について、間に合うものならば調査を行わなければならないと、思い知らされることになった。
『ブリヌイに見られる環日本海の文化交流』
ロシア料理と思われがちなブリヌイが、実は能登、越中界隈でカブス(漁師に漁の分前として分配される魚)を食べるときに焼かれていた、雑穀のクレープ状のものに、魚を挟んで食べる食べ方と通底し合う食文化と見て良いという、能坂利雄先生の調査メモを読む機会があった。
漁師たちが作る雑穀のクレープには特に決まった名称がないものの、冬季ブリを巻いたものが「ブリの」「ブリのが」「ブリのん」と言われていたものであり、細かく切った魚を味噌などと共に汁気が飛ぶまで火を通した具材を拭い取って生地に乗せるところから、こうして食べること自体は「拭い(ぬぐい)」と呼ばれており、具材として使う魚の名前のみで「イカの」「アジの」となる。
魚の擂り身を挟むことも多く、偶然、ロシアの「すり潰す」という意味の言葉、「ブリーン(blin)」の複数形「ブリヌイ」と一致したため、そのまま料理名として馴染んだものと見られるとのこと。
この料理の伝播には、古くからの北陸と環日本海の交易網、加賀の密貿易網とユダヤ人が関係していると見ておられた。
氷見に伝わる食紅を入れたどんどん焼きや、カマボコが巻いた形をしているのも、このカブスの食べ方から発生しているということらしい。
更に、これらに関連して能坂先生は、ブリスマスと左義長、マースレニツァとの関係についても、何か調査をしていた様だが、灰の使途について日本海沿岸地域の習俗を広く調査をという記述があるのみで、詳しい考察は後日のノートにも見られなかった。
『富山県氷見市の奇祭ブリスマス』
富山県氷見市といえば、寒ブリの町だ。
氷見では、古墳時代の頃既に成人の通過儀礼的な風習として、真冬の海からブリを抱き上げ、形の良い物を選んで、近隣の信仰を集めていた石動山の山の神、イスルギヒコに奉納するという、まさに奇祭ともいえる習慣「ブリスマス」が行われていたほど、この地域に暮らす人々と鰤の関係は古く、深い。
しかし、昭和40年頃を最後にこの習慣は廃れ、今では地元氷見で「ブリスマス」と聞いても十中八九「クリスマス」のダジャレだと言われてしまうほど、忘れられた習慣となっている。氷見市内の朝日山公園にあるブリ小僧の像がなぜ、鰤を抱き上げる形になっているのか、その由来についても、あまり意識されることが無い。
加賀藩の藩主となった前田利家が、塩漬けの寒ブリを京都に送る様に命じる書簡が、当時の宇波村の村役人だった旧家に今も残っているが、その書簡の中にも『「鰤すまう」にて抱き上げられたものであればなお良い』といった要望が挙げられていることから、氷見の鰤だけでなく、「ブリスマス」も比較的知られた習慣だったことは伺いしれる。
ここで面白いのは、鰤が奉納された石動山の神イスルギヒコは、サルタヒコとも同一視されることだ。
サルタヒコは、イエス・キリストと同一人物と見る驚くべき説も見受けられるほか、サルタヒコ、イエス・キリストがともに、天狗と同一視できるとする説もある。
あくまでオカルトめいた非公式な説のひとつに過ぎないが、「ブリスマス」が実行される時期も合わせて、氷見では不思議な符号の一致が見られる。
日猶同祖論的な見方をすれば、イスルギヒコの「イス」という音、石動山に至る途中には、磯辺(イソベ)という地名もあり、日猶同祖論といえば、ユダヤとの関連が取り沙汰される春日大社の荘園になっていた地域も氷見市内にはあるのだ。
そして、十字架になる以前のキリスト教のシンボルマークが魚だったということも、広く知られている事実ではある。
また、氷見では天狗の伝承も多く残っている。春、秋の祭礼で演じられる獅子舞は、天狗が獅子を退治する過程を描くものとなっており、氷見市内では各村落ごとにそれぞれ独自の獅子舞が伝えられている。
ただ、実際に行われなくなって50年以上が経過してしまうと、「ブリスマス」に参加した人々の高齢化、「クリスマス」と時期が被ることもあって、詳細が全く失われてしまっていることも確かだ。
これは明治に入り、廃藩置県の新体制と廃仏毀釈の煽りをうけ、石動山にあった寺院、石動山天平寺が経済的な後ろ盾を失って瓦解し、ブリスマスの最も儀式的な中核だった「石動(イスルギ)鰤起こし」という、浜で締めた鰤の血が滴るうちに、石動山を駆け上る神事が行われなくなり、単なる成人のための行事として形骸化した結果、生け捕り用の網の制作など、準備段階から多くの儀式があったとされる「ブリスマス」の手順が、相当に簡略化されたことにも一因がある。
前田慶次が世に知られるきっかけを作った氷見市出身の作家、能坂利雄氏も、ブリスマスの急速な風化を危惧してかなり丹念に取材を行い、多くの記録を残したと言われるが、ついに著作としてまとまることは無かった。
能坂氏の死後、取材ノートは氷見市の図書館に寄贈され、散逸は免れてはいるものの、「ブリスマス」は既に「失われた祭り」となっている。
各種情報
なんと、ここに掲載する投稿がありません。
富山県氷見市
氷見市は、富山県の北西部に位置する市です。能登半島の基部にあたり、市の東側は富山湾(有磯海)に面しています。
市制施行は1952年(昭和27年)8月1日です。
市の北から西にかけては宝達丘陵が石川県との県境となり、南の二上山丘陵が高岡市との境界となっています。市内には、平ノ山、蔵王山、石動山、柴山などの山々や、上庄川、湊川などの河川、十二町潟という湖沼、虻ガ島、唐島、仏島といった島があります。
1991年から2020年の平均気温は年間で13.4℃、年間降水量は2,156.5 mmです。
歴史
氷見という地名の由来には諸説あり、狼煙を見る場所から「火見」、立山連峰の万年雪が見えることから「氷見」、漁り火が見えることから「火見」、または海が干し上がった場所から「干海(ひみ)」と呼ばれた、などがあります。
市制施行前は氷見町であり、1889年に射水郡氷見町として発足、1896年には氷見郡に所属となりました。
1952年の市制施行時には、碁石村、八代村、余川村を編入しました。当時の面積は57.52 km²、1953年3月時点の人口は30,094人でした。その後も周辺町村との合併を重ね、1954年4月1日には太田村を除く氷見郡の全域が氷見市となり、現在の市域が確定しました。
歴史的な出来事としては、十二町潟のオニバスが天然記念物に指定されたこと(1923年) や、1500戸以上が焼失した氷見町大火(1938年)、市内初の交通信号灯設置(1964年)、氷見市教育文化センターのオープン(1982年)、市制50周年を記念した「ひみキトキトまんが道大賞」の創設(2002年、現在は休止)、金沢医科大学氷見市民病院の開院(2008年)、ひみ番屋街のオープン(2012年) などがあります。また、地元出身の漫画家・藤子不二雄Ⓐがデザインした「ひみぼうずくん」が2014年に市の公式マスコットに指定されました。
2024年1月1日には能登半島地震で震度5強を観測し、家屋倒壊や断水などの被害が発生しました。
このサイトは、そんな富山県氷見市の現実をふわっとフィクションでラップする試みです。