能登を邪馬台国の中心地と見る
魏志倭人伝の方角、距離に関する記述は、果たしてどの程度鵜呑みにできるのかを考えた場合、当時の交通の状況、資源などの状況から、邪馬台国の中心地を能登周辺だと考えることは可能ではないだろうか。
氷見は、まさしく「ヒミ」であり、日本の歴史において、縄文時代と弥生時代の前後関係を確定させるに至った遺跡、大境洞窟の裏手にある九殿浜(くでんはま)の「九殿」とは、元々宮殿が当てられていたとも言われている。
我々が現在考えている日本の歴史的な「中央」の変遷について、改めて様々な角度で考えていきたい。